私たち飼い主は、家族の一員として愛犬・愛猫に深い愛情を注ぎます。しかし、その「家族」の自然な行動が、私たち人間の暮らしに合わない時、私たちは本当の意味で彼らに寄り添うことができるのでしょうか。
ソファや柱で爪をとぐ。それは猫にとって、心身の健康を保つために欠かせない、ごく自然な本能行動です。しかし、その行動による室内の傷や、人へのひっかき傷に頭を悩ませる飼い主は少なくありません。その悩みを解決する最終手段として選択されてきたのが、猫の爪に対する「抜爪手術(ばっそうしゅじゅつ)」です。
しかし今、「抜爪手術は動物虐待である」と世界的な厳しい視線にさらされています。かつては一般的な手段としていたアメリカでも、獣医学的な知見の深まりと共に、それを禁止する法律が次々と成立しているのです。この記事では、抜爪手術の真実と術後の猫に与える深刻な影響を科学的根拠と共に深く掘り下げていきます。そして、日本に暮らす私たちが、愛犬や愛猫とどう共生していくべきなのかを考えたいと思います。

「爪を抜く」のではなく「指を切断する」手術の正体
「抜爪手術」という言葉からは、単に爪だけを根元から取り除くようなイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。しかし、その実態は大きく異なります。
猫の爪は、人間の指の末節骨(まっせつこつ)、つまり指の第一関節から先の骨の先端から生えています。そのため、爪が再生しないように完全に取り除くには、爪母(そうぼ)と呼ばれる爪を作り出す組織ごと切除する必要があります。結果として、抜爪手術とは、猫の指の末節骨そのものを、骨ごと切断・除去する手術なのです。
これは、人間の指で例えるならば、すべての指の第一関節から先を、根こそぎ切断するのと同じレベルの侵襲行為です。決して「爪を抜く」というような、穏やかな処置ではありません。この医学的な事実が広く知られるにつれ、抜爪手術に対する倫理的な見方は、世界で劇的に変化していきました。
ニューヨーク州から始まった禁止の波。アメリカで広がる「非人道的」との認識
抜爪手術に対する価値観の変化を最も象徴しているのが、アメリカの動きです。2019年、ニューヨーク州が全米で初めて、美容目的や飼い主の利便性のための抜爪手術を法律で禁止しました。これを皮切りに、メリーランド州、デラウェア州、そして多くの主要都市が次々と追随しています。
世界に目を向ければ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、そしてヨーロッパの多くの国々では、抜爪手術は数十年前から法律で禁止、あるいは厳しく制限されてきました。世界最大の獣医師団体の一つである米国獣医師会(AVMA)も、抜爪手術は「猫の引っ掻き行動が人間に深刻な健康上のリスクをもたらし、他のすべての代替案を試しても解決できなかった場合にのみ考慮されるべき、最後の手段である」との方針を示しており、決して推奨されるものではないという立場を明確にしています。
この世界的な潮流の根底にあるのは、「一時的な人間の利便性のために、動物に生涯続く回復不可能な身体的・精神的苦痛を与えることは、倫理的に許容されない」という、動物福祉に基づいた確固たる信念なのです。
利便性の代償。猫の生涯に刻まれる後遺症
抜爪手術が猫のQOL(生活の質)に与える影響は、私たちが想像する以上に深刻であり、その苦しみは生涯にわたって続きます。最新の研究は、手術がもたらす様々なリスクを明らかにしています。
歩くたびに痛みが走る。猫のQOLを著しく損なう身体的リスク
猫は、つま先で歩く「指行性(しこうせい)」の動物です。指先の骨を失うことは、彼らの歩き方、体重のかけ方、そして身体全体のバランスを根本から変えてしまいます。
【術後の急性痛と合併症】
手術直後には、強い痛みはもちろん、出血、感染、神経損傷などのリスクが伴います。切断した骨の断片が体内に残り、生涯にわたる痛みの原因となることもあります。
【慢性的な痛みと神経系へのダメージ】
指の構造が変わることで猫は不自然な歩き方を強いられ、関節などに慢性的な痛みを引き起こすと考えられてきました。この問題を科学的に裏付けたのが、2025年に『Scientific Reports』で発表された研究です。この研究では、抜爪済みの猫が単なる関節炎の痛みだけでは説明できない、神経損傷に起因する強い痛覚過敏に苦しんでいることを客観的なデータで明らかにしました。
【歩行・運動能力の低下】
本来の体重のかけ方ができないため、走る、ジャンプする、高いところに登るといった、猫らしいしなやかな動きが制限されます。これもまた、猫から大きな喜びを奪うことに他なりません。
爪の代わりに「牙」をむく。心の傷が引き起こす深刻な問題行動
身体的な苦痛は、猫の心にも深い傷を残し、時として深刻な問題行動となって現れます。「問題を解決する」ために行った抜爪手術が、さらに深刻で手放す原因にもなりうる新たな問題行動を引き起こしてしまうケースは、決して少なくありません。
【攻撃性(噛みつき)の増加】
猫にとって爪は、最も重要な防御手段です。その爪を失うことで、猫は常に無防備な状態に置かれ、不安や恐怖を感じやすくなります。追い詰められたと感じた時、彼らに残された防御手段は「噛みつく」ことしかありません。実際に、抜爪された猫は噛みつき行動が増加する傾向があることが、獣医行動学の分野で広く認識されています。
【不適切な場所での排泄】
多くの飼い主を悩ませるのが、トイレ以外での排泄です。これは、猫からの「SOS」のサインに他なりません。手術後の指は非常に敏感になっており、トイレの砂を踏むこと自体が、猫にとって耐え難い痛みとなる場合があります。その痛みを避けるために、彼らはカーペットや布団の上など、より柔らかい場所で排泄するようになってしまうのです。
皮肉なことに、飼い主が「問題を解決する」ために行った抜爪手術が、噛みつきや不適切排泄といった、さらに深刻で手放す原因にもなりうる新たな問題行動を引き起こしてしまうケースは、決して少なくありません。

世界の変化のなかで、日本はどこにいるのか
法的禁止はなし。獣医師と飼い主の判断に委ねられる日本の現状
では、日本の状況はどうでしょうか。現在、日本には猫の抜爪手術を直接的に禁止する法律はありません。動物愛護管理法には、みだりに動物を傷つけることを禁じる条文がありますが、獣医療行為としての抜爪手術がこれに該当するかどうかの明確な基準はなく、最終的な判断は、個々の獣医師の倫理観と飼い主の選択に委ねられているのが実情です。
しかし、法的な規制がないからといって、日本で抜爪手術が積極的に行われているわけではありません。日本獣医師会(JVMA)は、公式見解として明確に禁止を謳ってはいないものの、爪とぎが猫の正常な行動であることや、代替案についても情報発信を行っています。
国内の多くの獣医師は、抜爪手術がもたらす猫への多大な苦痛を理解しており、その実施には極めて慎重です。
「最後の手段」と考える獣医師たち。動物福祉と飼い主の現実の狭間で
日本の獣医療の現場では、抜爪手術は「飼い主からの強い要望があり、かつ、他のあらゆる手段を尽くしても問題が解決せず、このままでは飼育放棄や殺処分に至る可能性が極めて高い」といった、限定的な状況下でのみ検討される「最後の手段」と位置づけられています。
例えば、飼い主が高齢であったり、血液を固まりにくくする薬を服用していたり、免疫不全の疾患を抱えていたりする場合、猫によるひっかき傷が深刻な健康被害につながるリスクがあります。このような追い詰められた状況で、獣医師は動物福祉の理念と、目の前にいる飼い主と猫の暮らしを守るという現実との間で、難しい判断を迫られることがあります。
しかし、これは抜爪手術を正当化するものではありません。むしろ、そうした状況に陥る前に、私たち飼い主が正しい知識を持ち、適切な対策を講じることの重要性を示唆しています。幸いにも、猫と人が快適に共存するための、人道的な代替案は数多く存在するのです。
| 対策 | 内容 |
| 爪切り | 爪の先端の鋭い部分を定期的にカットする |
| 爪とぎ | 複数の素材(段ボール、麻、カーペット生地など)や形状(縦置き、横置き、ポール型など)の爪とぎ器を複数箇所に設置する |
| 環境 改善 |
おもちゃで遊ぶ時間を増やしたり、キャットタワーを設置したりして、猫のストレスを発散させ、エネルギーを適切に使える環境を整える |
| 爪キャップ | ビニール製の柔らかいキャップを猫の爪に接着剤で装着する |
| フェロモン剤 | 猫が安心するフェロモンを拡散させる製品を使用し、ストレスを軽減する |
これらの方法を根気よく試すことで、ほとんどの爪とぎ問題は改善が可能です。
「家族」と呼ぶのなら、私たちがすべきこと
抜爪手術をめぐる世界の大きな価値観の変化は、私たちに一つのシンプルな、しかし非常に重要な問いを投げかけています。それは、「私たちは、動物を本当の意味で理解しようとしているか?」ということです。
猫が爪をとぐのは、けっして私たちを困らせるためではありません。爪を最高の状態に保ち、自分の縄張りを主張し、遊び、ストレスを解消するための、彼らが彼らであるために不可欠な行動です。その本能を、人間の都合で、痛みと苦しみを伴う外科手術によって奪い去るという選択は、彼らを「家族」と呼ぶ私たちの行動として、本当に正しいのでしょうか。
真の共生とは、相手の性質をねじ曲げることではなく、相手のありのままを理解し、受け入れ、その上でお互いが快適に暮らせる道を探る知恵と努力の中にこそあります。爪とぎの場所をしつけ、定期的に爪を切り、時には壁に保護シートを貼る。そうした一つひとつの地道な工夫こそが、猫への深い愛情と敬意の証です。
動物福祉に基づいた新たな知識を知ることは、愛猫との暮らしをより豊かにするために必要なことだと考えます。そしてそれは、日本におけるペットと人の関係を、より成熟した未来へと導いていくことでしょう。
元の投稿: 犬や猫とハッピーに暮らすための情報と最新ペットニュース - ペトハピ [Pet×Happy]
愛猫の「指」を人間の都合で奪いますか?世界で価値観が動く「抜爪手術」の正体
