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26億円でもリーズナブル!? フェラーリ「250LM」の奇跡の個体は長らく日本にあった個体でした。奇跡の所以を解説します

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ル・マン出走歴のあるフェラーリ250LMがオークションに登場!

RMサザビーズの北米支社が、カリフォルニア州モントレー市内にて毎年8月に開催する「Monterey」オークションは、クラシックカー/コレクターズカー業界最大手のひとつである同社にとっては、まさしくフラッグシップともいうべき大イベント。そこで高額落札された、あるいはされそうなクルマが世界的な話題となるのが常である。2023年の主役、最大のトピックとして初夏あたりから積極的に広告展開の対象となっていたのは、超高額の落札が予測される「フェラーリ250LM」だった。

ル・マンで勝利した250Pに小さなルーフを載せたもの?

1950年代後半以降、レーシングカーおよびスポーツカーの設計は、ミッドシップへと着実に転換していた。レース用として進化したこの構成をフェラーリが採用したのは、1960年代初頭のレーシングスポーツ「ディーノ246SP」が最初。しかし、ディーノV6エンジンも進化を続けていたにもかかわらず、ディーノSPたちは大排気量のライバルに太刀打ちできないというのが実情だったようだ。

そこで、マラネッロのエンジニアたちはリアミッドにV型12気筒エンジンを配置することを検討し、1963年初頭、246SPとして製作されたシャシーナンバー#0796に、テスタロッサ仕様にチューンした3LのコロンボV12エンジンを搭載する。これが伝説的な「250P」のプロトタイプであり、1963年のル・マン24時間レースで優勝したモデルである。

スポーツカー耐久選手権最上位カテゴリーであるレーシングスポーツにおいてミッドシップV12が果たした成功を考えれば、フェラーリがこの設計をプライベーター向きのGTカテゴリーに移行させるというのは、実に理にかなった選択だった。250Pは、プロトタイプのオープンボディにルーフを追加した、新しいベルリネッタのベースとして使用される。

セルジオ・スカリエッティのカロッツェリアは、250Pのフロントエンドとフェンダーの処理に始まり、フライングバットレス様式でリアを切り詰めた低いルーフでそれらを覆い、レースカーのリア・クラムシェルを通して流れ落とすという、のちにもっとも高く評価される傑作のひとつを作り上げた。

このニューモデルはル・マンにちなんで「250LM」と名付けられ、1963年のパリ・サロンでシャシーナンバー#5149として正式に発表された。エキゾチックな外観とコンペティション用にチューンされたパフォーマンスにより、LMは後に続く大排気量リアエンジンのスーパーカーへの道筋を作ることになったのだ。

1968年のル・マン24時間レースに出走

2023年夏「Monterey」オークションに出品された250LM、シャシーナンバー#6053は2021年に「フェラーリ・クラシケ」によるレストアが施されただけでなく、ル・マンでも使用されたヒストリーの残る、マラネッロの伝説的レーシングカーの中でもとくに望ましい1台である。

250LMとしては22台目に製造された個体で、このモデルを象徴する「ロッソ・チーナ」のカラーリングにブルーのクロス張りのシートで仕上げられ、1964年10月には英国におけるフェラーリの正規代理人であり、マラネッロ本社とも関係の深いプライベーター、ロニー・ホアー大佐の「マラネッロ・コンセッショネアーズ」に納車された。

そして、イギリス人レーシングドライバーのジョージ・ドラモンドに新車として販売され、ドラモンドはすぐに地元のBRSCCサーキットでレースデビュー。その後も世界各地の大規模なイベントに参戦した。初期のハイライトは1965年4月のウィスコンブ・パークでのクラス優勝、その後の4カ月間にブランズハッチ、スネッタートン(2回)、シルバーストーンで4度の総合優勝を飾ったことだった。

1966年2月にはデイトナ24時間レースにエントリーし、イネス・アイルランド/マイク・ヘイルウッド/ドラモンド組がドライブした。残念ながら、このマシンは90周を走ったところでトランスミッショントラブルによりリタイアを余儀なくされてしまう。

それでもその後の2年間、#6053は少なくとも8回の出走を記録している。なかでも1966年9月のオーストリアGPでは「スクーデリア・フェラーリ」のワークスドライバー、マイク・パークスが搭乗。クラス3位/総合8位でフィニッシュしたのは、この個体にとって重要なトピックといえよう。

さらに#6053は地元イギリスでのレース活動を続けたのち、1967年11月から12月にかけてアフリカで開催された4つのイベントにエントリー。このうち、モザンビークで開催された「ルレンソ・マルケス3時間レース」では、総合5位に入賞した。

1968年5月、ドラモンドはこのフェラーリを売りに出し、ロンドンを拠点とする「ポール・ヴェスティ・レーシング」が入手。ポール・ヴェスティはこの直前まで、元マラネッロ・コンセッショネアーズのシャシーナンバー#6167という別の250LMをレースに使用していた。

じつは、同チーム所属のデビッド・パイパーが#6167とともに臨んだ「タルガ・フローリオ」では大事故に見舞われ、シャシーとボディは修復不可能となってしまう。そこでヴェスティは、当時のレース界ではよく行われていたように、エンジンとトランスアクスルをユニットとして取り外し、別の250LMにコンバートする方策を模索していた。というのも、ナンバー#6167を与えられたV12エンジンは、すでにル・マンの審査員によって承認されていたからである。ヴェスティは代わりのシャシーを探した結果、ジョージ・ドラモンドから#6053を購入することになった。

こうして#6053を手に入れたヴェスティは、ナンバー「6167/22LM」のエンジンとトランスアクスル番号「17」に載せ替え、間近に迫ったル・マンに照準を合わせた。

ヴェスティのマシンは、1968年のル・マン24時間レースにエントリーした6台のフェラーリ250LMのうちの1台だった。紫がかったダークブルーにホワイトのストライプで仕立て直され、ゼッケンナンバー19をつけた250LM-6053は、オーナーであるヴェスティとアメリカ人ドライバーのロイ・パイクによって操縦され、予選32位からスタートした。

土曜日の午後、最初の1時間で26位まで順位を上げ、そのポジションを2時間目までキープしたものの、直後に小さなアクシデントを起こし、マシンのリアエンドをピットで修理する必要に迫られた。ロイ・パイクはレースに復帰した時点で46位まで順位を落としていたが、10時間目までに31位まで順位を上げた。

ところが99周目、悲しい運命が襲いかかる。ギアボックスが故障したことでリタイアを余儀なくされ、サルト・サーキットにおけるヴェスティの挑戦は、早々に幕を閉じたのだ。

それでも、レースをスタートした54台のうち、過酷なレースを完走できたのはわずか15台だったことを考えれば、この結果は決して恥じるものではないだろう。

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